神社の御札は、領収書

日本人は、多文化の共存が超得意です。
お盆やお葬式には、お寺で過ごし、お正月には、神社に初詣。クリスマスには、ケーキとチキンでどんちゃん騒ぎ。

これらのことをわたしたちは、何も不思議に思いません。何もかも有り難いものなのです。
元々自然崇拝のDNAを備えた民族である日本人は、作物の出来不出来によって生命線が保たれて来た背景もあります。備蓄や農耕技術が未熟であったわたしたちの遠い先祖は、それこそ毎日不安であったに違いありません。

縄文時代の頃、エジプトではピラミッドが作られ、ギリシャでは、民主政治も行われていたとされます。人類の文化レベルでは、劣っていてもその頃の日本人は、霊性的には高く純粋なものであったと推察されます。
そういった背景から、ためになるものなら、どんなものでも吸収しようとする「お陰」や「ゲン担ぎ」を好む民族性が育まれて来たのではないでしょうか?

さて、有り難いお話と言えば、神社の御札って、どうでしょうか?
多くの方が、初詣などで一年に一度新しい御札を社務所で頂いて、お祀りしていると思います。
「札」の意味について、考えてみましょう。
例えば、名札、表札といった「存在を示す」意味と、お金のお札、これは、「引き換える」意味があります。
札を音霊で、チャネリングすると。「積み重ねる」という言葉が、インスピレーションされます。
お金のお札を積み重ねたら、それはそれは、嬉しいですよね(笑)
でも、この場合の積み重ねは、「努力」の意味だと思います。

御札を要約してみましょうか。

「日々の努力をもって、あなたの今ある存在=姿を見直して、身に付けてしまった不浄を清浄な神威と引き換えること」
これが、御札の正体ということです。

ということは、御札自体に神威とか神様のお陰なんて、そこにはパワーは宿っていないことのなります。
元々、御札は「行ったことのお印(しる)し」であったことは、事実です。
その昔、伊勢講などに代表されるように、村の代表が、遠路はるばるお陰を得るために伊勢に向かいました。途中盗賊にあったり、病に罹ったりして命を落とすかもしれません。無事に村に帰って伊勢神宮にちゃんとお参りしてきたよ。とするその証拠が御札だったわけです。
むろん人々は、命がけで自分たちの代わりに詣でてくれたその御札を尊いものとして祀ったわけです。
御札は、神社に浄財を納めた、引き換えに頂く「領収書」なのです。

さてあなたは、商店で買い物をした領収書やレシートを神棚に祀りますか?
しませんよね。
でも、単に縁起ものだからという感覚で、可愛い巫女さんを狙って買った御札なんぞは、レシートと同じなんです。
また、身体が不自由であったり、入院をしていたりして初詣に行けない人たちはどうでしょう。あるいは、宗教的な理由で、御札を持たない人たちは。

結果から言うと、御札なんて祀らなくても構わないんです。
むしろ要らないとも言えます。
大切なのは、「日々の努力をもって、あなたの今ある存在=姿を見直して、身に付けてしまった不浄を清浄な神威と引き換えること」。これなのです。
商売繁盛や合格祈願。商売の努力や勉強をおろそかにして、頂いた御札に何の意味があるというのでしょうか。
御札は、人為的に考えられた領収書に過ぎません。

あなたを見守る神様は、あなたに積み重ねの努力に対して、結果という神威を与えてくださるものだと思いませんか?

わたしは、空にも雲にも普通のお山にも神霊を感応します。

その空も雲もお山も御札を与えてはくれませんものね。

 

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